孔子が最も大切だと説く仁、これは本人もはっきり定義しておらずなんなのかは一見わかりません。いろいろな徳目のおおもとにあるもので、私たちはそれを愛というようにとらえて差し支えないと考えます。この仁が、子供の親への孝や弟の兄への悌と、自分を偽らない忠、他者をあざむかないという信、他人の身になって考える恕、といったように、その場や関係に応じてあらわれてくるというのです。儒教というと形式的な礼儀や上下関係をしいるもののようになってゆき、それが時々の支配層に利用されてきた側面があります。しかし孔子のいう礼とは、自分の欲に打ち克って社会的な規律に自ら従うようにふるまう、といった実践的な構えだったといえます。
孟子はどこまでも道徳に基づく、民衆の幸せを第一とする政治をめざします。民が一番上。国家はその次。一番下が君主だとまで言います。君主に徳がなく、そのために民衆が不幸になるのなら、君主を取り換えてもよいとしたところにすごさがあります。
荀子の性悪説も誤解されがちです。彼が「人の性は悪、その善なるものは偽なり」といったその偽が、偽物ととられたからでしょうが、この偽とは、後天的な、人の手によるものと捉えられるそうです。そうすれば、教育や社会規範によって人を正しい方向へ導くことをこそ重視したことがよくわかります。
これら儒家に対して、老子は、万物がそこから生まれそこへと帰るすべての存在の根拠があるとして、これを道(タオ)と仮によびました。道はなにもしない、だけれども万物は道の働きによるという。そしてそれは万物を超超していながらも万物に内在している。こういった不可思議な自然観にたちながら、人間はいっさいの作為をすてて、この道にしたがって、自然に身を任せ、私欲を去り、やわらかで謙虚な心で人に接しなさい、とおしえます。私はこのような教えにとても魅力的なものを感じるのです。また、老子は、必要最小限のものと、わずかな人口から構成される小さな国を理想としました。国家を強く、強くという価値観にうんざりしている私は、こういうものもありだとおもいます。
荘子は、よい、わるいとかきれい、きたないとかの差は、人間が勝手に作ったものに過ぎないと言います。ありのままの世界にはそんな差別や対立はない。このようなあるがままの自然というものに従い、分別を捨てて、天地自然と一体となって生きる。こういうのも魅力的だと思いませんか。そんな境地にこそ、荘子は自由をみいだすのです。