世界三大宗教といえば、キリスト教・イスラム教と、仏教です。
イエスは、神の国はどこかにあるのではなくあなたの中にある、といったそうです。一人一人が自分の存在をかけて神とむきあう、自分の信仰を持つことによってこそ神の国はたちあらわれる。だからこそ当時のユダヤ教が形式的な戒律主義になっていたことへのアンチと捉えられたわけですね。イエスは、心から神を愛すること、そして自分と隣人を愛することを説いた。イエスが磔にされ刑死したのち、彼が復活したと信じる人々がイエスの教えを宗教化します。中でも、パウロはイエスの十字架の死を、人間の負う原罪を一身にあがなったものと意義付けます。のちアウグスティヌスはこうした原罪を背負う人間は、神のみが救うことができるのだとしつつその代理人として教会を定位します。そののち信仰と理性との関係をめぐって中世にながく論争が続きます。それを経ながら、合理的な精神や哲学が信仰の下にすえおかれつつも育まれていきます。
イスラム教の特徴は、聖と俗をきっぱりとわけることなく、信者は唯一の神アッラーに絶対的に帰依し生活のすべてにおいてその教えを体現しようとするところにあります。イスラム教を信仰する人々と身近に接する機会のおおい現在、彼らの信じる者はいったいどのようなものかを理解に努めることが大切です。
私がもっともその思想に惹かれる仏教。この世を苦しみの世界と考えるインドの精神的風土の中から生まれたブッダの教えは、その苦しみの原因を明らかにすることで脱却の方途を指し示したものといえます。あらゆるものは変化してやまない、独立した不変のものなどはない。そのことを知ることで何もかも自分の思い通りにしようとして苦しむこともなくなるというのです。苦しみの源は自分自身のこだわりにあると仏教では考えるのです。
ゴータマ=ブッダの死後、仏教も宗教としての形を成し、教団をつくり、やがて教えの解釈をめぐって宗派に分裂してゆきます。ところでもっとも短くてもっとも有名なお経である般若心経には、一切は空である、といっています。これはどういうことでしょう。一切のものは存在しない、というよりかは、あらゆるものが他の様々なものとの相互関係のうちにあるし、変化してゆかないものなどはないのだ、というふうにとらえておくのが妥当なのではないかと私は考えます。またさらに唯識思想というものも仏教から生まれました。これは、ものごとを認識する主体も、認識される対象も、客観的に実存しているというより、心のうちに生じた映像に過ぎないという考え方です。このように多くの仏教の宗派では心を改めることがまずは目指されると言えるでしょう。