新しい学びのカタチ
生徒が自分から取り組み、
「したい」を〈できる〉にする力をみんなで身に付けていく
そんな塾です
世界史探究

スラヴ民族の歴史

 スラヴ民族は現在のウクライナ西部・ベラルーシ・ポーランド東部の森林地帯が起源といわれる。5~7世紀に、なぜかわからないが人口が増えて、耕作地が不足するようになったことから、あるいはアジアから移動してきた諸民族におしだされるように大規模な移動と拡散をし、東ヨーロッパ・バルカン半島・中央ヨーロッパにも進出した。9世紀にモラヴィア王国・キエフルーシ・ブルガリア帝国など国家を形成しはじめる。ところでスラヴ民族は一時期スレイブ(奴隷)の語源であると差別的にいわれたことがある。しかしそれはまったく根拠のないデマゴギーというわけではないらしく、中世ヨーロッパではスラブ系の人々が奴隷として売買されることがおおかったようだ。

 キエフ・ルーシは、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ共通の祖国である。建国したのは北方ノルマン系のヴァリャーグ(古スカンジナビア語で「誓いを立てた仲間」「忠誠の兵士団」の意。民族名ではなく軍事的・社会的な立場を指すなまえ。北欧から東欧・ビザンツへ展開した武人・商人・支配層)であるけれどあくまでスラヴ人主体の国であった。もうすこし詳しくいうと、ノルマン系のリューリクという人物がノヴゴロドに入ってきて、その一族がのちにキエフを支配していった。彼らは農耕・交易・部族政治を営んでいたスラブ人の土地にやってきて、支配層として君臨したのだ。しかし彼らはスラヴ人の言語・風俗・文化に同化していった。モンゴル帝国の侵入によってキエフ・ルーシは崩壊し、キエフ周辺はリトアニア・ポーランドの支配下に置かれた。北東ルーシからは、モスクワ大公国が台頭し、西ルーシ(現在のベラルーシ)ではリトアニア・ポーランド王国の構成地域となった。17世紀になるとウクライナ東部がロシアの保護下に入る。そして18世紀にかけてウクライナ全土をロシアが併合した。その過程でウクライナではむしろ自分たちはモスクワとは異なるキエフ・ルーシの正統な後継者であるという意識が高まった。そしてソ連時代にウクライナではスターリンの過てる農業政策ゆえに飢餓で数百万人が死亡した。現在、ロシアとウクライナの戦争が残念なことにやむことなく続いてしまっている。両者はフラットにみても同じ根から生まれた幹が枝分かれしたような関係であるけれど、長い歴史の中で抑圧と反抗のなかから、まったく異なり相対立する歴史観がうみだされてきた。

 キエフ・ルーシが成立する前、スラヴ民族は農耕を基盤とした部族共同体を営んでいた。血縁集団であるロドという氏族を基本単位として農耕や牧畜・林業・狩猟をおこなって暮らしていた。ロドでは土地・財産を共有し、長老などが指導した。そして、ヴェーチェという成年男子からなる部族集会がもたれた。彼らは合議制にもとづく直接民主的な部族共同体を形成していたと言える。そして自給自足的な農業を基礎としつつ交易にも従事した。そうした社会に、北方からやってきたヴァリャーグが介入してきたのであるが、彼らはとにかく軍事的に征服したばかりではなく、スラヴの部族間を調停しながらうまく支配層になり、交易・防衛・行政の指導権を握っていった。このことが、国家が制度としてなかったスラブ社会にキエフ・ルーシが出来上がる土壌となったのだ。

 スラヴ人の社会においては当初中央集権的国家が形成されず、移動に適した分散的な部族社会だった。そこでは、中央集権国家にはありえないような、一定成員による民主的な話し合いにもとづいて意思決定をするような社会があったようである。歴史は単線的に進歩するわけではなさそうであるし、各民族が自足的に展開するものでもなさそうである。それぞれの社会や政治システムを有した民族が、軍事侵攻や通婚や移動や交易などの相互作用のくりかえしのなかで、影響しあい血統的にも融合し、文化的にも相互浸透したり、政治的に支配する民族が支配される民族の文化や風習に染め上げられたり、あらたな政治システムや文化がうまれたり…。こうした歴史のダイナミズムをまなぶことは、実におもしろい。

2025/7/8