世界史についてテーマを決めてまとめることにする。チンギス=ハンの後継者を自称するティムール(タメルラン)は、トルコ系のモンゴル人(後述)であり、現在のウズベキスタンに生まれた。1370年サマルカンドを拠点として政権を樹立し、以後遠征を繰り返して、ペルシャ・イラク・アフガニスタン、さらにはインド北部までを支配した。そして当時勃興し勢いのあったオスマン帝国と雌雄を決して勝利しバヤジット1世を捕虜にした。
トルコ系モンゴル人というのは、チャガタイ=ハン国の下でモンゴル人支配層とトルコ系遊牧民が混血して文化的にも融合することで生まれた。ティムールは実際にはチンギス=ハンの血をひいてはいないらしいが、彼は血統的にはモンゴル、言語・文化的にはトルコ系である。このことからしても戦争や交易・文化融合によって歴史的に民族は血統ではなく複合的に形成・変容していくものだといえるだろう。
ティムールとオスマン朝のアンカラの戦い(1402年)は中世イスラーム世界の一大決戦だった。ティムール軍20万人は騎兵と投石機を有していた。オスマン軍を水源地を先に抑えることで渇きによって疲弊させておき、トルコ系のアナトリアの諸侯をオスマン側から離反させて、包囲しつつ側面と背後を攻撃する、という実に天才的かつ周到な戦術によってオスマン軍を分断し大混乱させて勝利している。これでオスマン帝国を一時的壊滅状態に追いやった(オスマン朝はその後空位・内乱の時代から再統一し、もっと強くなるのであるが)。ティムールはオスマン朝の領土を支配することはせず、さっさとサマルカンドに帰っている。これは彼にとって領土的野心よりも覇者は俺だ、という名誉のための一戦だったといえるかもしれない。
オスマン側の総大将バヤジット1世は戦場から逃げようとしたが捕まってしまう。さらにティムールの遠征軍に鎖につながれた状態で連れまわされたと言われる。これは屈辱である。その後にバヤジットは病死したとも自殺したともいわれる。あるいはティムールによって処刑されたとも。他方でティムールがバヤジットの尊厳を認めて宴席に招いたともいわれている。このように、歴史というものは正解はなく、わからないことが多い。歴史を残したものの立場や関心や利害によってまったくことなった”絵”が描かれるのだ。ただしティムールはオスマンと戦う前に「無益な争いは避けよう」といって諭すような文章を送っているともいわれており、こうした残された資料から私たちは歴史を自分なりに構成してゆくことができるのだ。
他方惨敗したオスマン朝は、その後より強い、制度も整った中央集権の国としてよみがえり、大帝国を打ち建てる。外交の重要性も学んだ。敗北から、それまでの急速な膨張による内部崩壊がまぬかれたともいえる。これも歴史の面白いところである。それまでのようにオスマン朝が内部に脆弱性を抱えたまま戦争による膨張をつづけていたなら、早晩オスマン朝は崩壊し歴史の闇に消え去っていたかもしれない。ティムールという不世出の軍事的天才によって徹底的に敗北し屈辱を味わうことが、自らの国づくりの弱点を反省しそのよわみを克服して強国として出直すための契機としたということである。歴史を学ぶということは単に事実の羅列を覚えることではない。かといってかってな物語を捏造することでもない。特定の事象からなにゆえにそうしたことがおこり、それがのちの時代にどのような影響を与えたのか、そして歴史を担う人間たちがどのように特定の事態をうけとめてどう感じ考えることで行動をしたのか、そうしたことを歴史的遺物を手掛かりに推測し解釈し、自分にとって役にたつものにすることが大切ではないだろうか。