それは一言でいえば、世界を貫いている、美しくも論理的で普遍的な秩序を感じるところにあるといえるでしょう。数学においては、たった数個の定義や公理から、広大で深い世界が、一貫した論理で展開されます。証明がうまくできたら、快感すら得られます。
そして、数学には国境や言語、時代をも超える普遍性があります。時空を超えた対話を可能にする「言語」です。宇宙空間に知能をもった生命体があるかどうかはいまだに解明されていませんが、宇宙人の知能をはかり、交信するためのメッセージ言語として数学が宇宙空間にうちあげられている、という話を聞いたことがあります。紙とペンさえそこにあり、考えようという意志さえあれば、だれでも宇宙の構造であるとか無限の世界といったものに、触れることができるのもすばらしいことではないでしょうか。お金もいらずに、自由な思考の翼で知的な冒険をどこまでも進めることができるのですから。
数学には論理的な確かさと創造的な柔軟さが同居しているといわれます。そして、無駄のいっさいない美しさと驚異が、多くの数学者を虜にしてきました。数学は知のアートともいわれます。人生をこれにささげる人もいるわけです。
数学者たちは、あるいは数学を愛好する人は、結果的な正解よりも、なぜそうなるのかに関心・興味を抱く傾向にあります。現象の背後にある構造をしることができると、とてもわくわくする、というのはわかります。そして数学が得意な人は、頭を使ったパズルやゲームとして数学をあきらかに楽しんでいます。なるほど、そうなのか、と深く納得できた時はえもいわれぬ高揚感があるのです。そしてうまくいかないときも、どうしてだろうと振り返ることで、自分を成長させようとするところはスポーツと共通するのではないでしょうか。運動部で頑張っている人も、発想をかえて数学を頭をつかったスポーツのようにとらえてみてはどうでしょうか。
また、数学者は、一見複雑な式や図のなかに、秩序や対称性・パターンの美をみいだすことで喜びを感じます。芸術的感動すら覚えます。また、わからないからこそおもしろい、と思えることで、わかるまであそべる、というように発想するようです。公式は、覚えないといけないというよりも知的探求を進めるうえでの強力なアイテムです。さらに世界が実は数と式でできている、というように考えることによって、数学者は世界がほかのひととはちがうものとしてたち現れてくるようです。
中学・高校の数学は、奥深い数学の世界の入り口でしかないとされますが、それでも多くの生徒が苦闘しているのを日々目の当たりにしながら、一緒にまなび、問題に挑戦しながらその魅力やたのしみを共有していきたいと思っています。数学は答えがはっきりしているからこそ、あいまいさのない、確実な知をもとめることのできる教科だといえます。また、答えは一つだとしても、そこに至る過程では自由に発想しいろんなやりかたを試して問題にいどんでいい。そこに自由と創造性を育む可能性があるんだと思います。だから、生徒のアイデア、どう考えて、問題を解こうとしたのか、それがどううまくいかなかったのかをきちんと見て取り、ともにどうすればうまくいくのかを考えるようにしています。