近代ヨーロッパでは科学と科学的思考が発展した。ルネサンスでそれまでの教会の権威に抑圧されていた人間らしさの回復がめざされた。宗教改革でカトリック教会を批判するプロテスタンティズムが生まれた。ルターは人々に信仰のみをもとめて各自が聖書に直接向き合うことを説いた。カルヴァンは人間が救われるかどうかは神にあらかじめ決められているとしたが、そのことで人々は神に与えられた職業に励むことで救済を確信しようとした。科学分野ではコペルニクスが地動説を唱えガリレオがたしかめた。ケプラーやニュートンは観察・実験によって、教会との緊張のなかでも自然法則を解明していった。
近代ヨーロッパ哲学は最初二つの潮流として、知識は経験に基づくとする経験論と、理性の働きによるとする合理論に分かれた。経験論のベーコンは帰納法、合理論のデカルトは演繹法を方法にした。とりわけデカルトは、疑えるものすべてをあえて疑い、疑っている「私」が存在することは確かであるとした。このことを拠点に近代的自我を確立し機械論的自然観を基礎づけ、科学の発展にも貢献した。パスカルは、人間を「考える葦」と表現し、人間の尊厳は自らの存在の意味を考えることにあるとした。カントは理性の働きとその限界を見極めようとすることで経験論と合理論を統合して見せた。そしてカントは自分の意志で道徳的な行為をなすところに人間の本質としての自由があるとした。さらに互いの人格を手段でなく目的として尊重しあう社会を構想し国際平和まで提唱した。ヘーゲルはカントの道徳的自由を個人の主観的なものであると批判し、道徳と社会の客観的法制度を止揚する人倫というものを考えぬいた。それは家族と市民社会の対立を理想国家において止揚する。ここにおいて真の自由な精神は実現されると当時ヘーゲルは考えた。彼は近代哲学の最高峰と高く評価され、その核心は「自由の相互承認」にあると現在再評価されつつある。
また、個人の幸福と社会全体の幸福をむすびつけ、快楽を増し幸福を増すのに役立つことが正しいとしたのが功利主義である。ベンサムは快楽の量は計算可能で「最大多数の最大幸福」をめざすべきだとした。ミルは快楽には質があり、他人の幸福を願う心こそ大切だとした。さらに他人に危害を加えなければどのような行為も幸福追求の自由としてみとめられるべきという自由の原則を立てた。
しかしながら、近代社会が進展するなかでうみだす否定的現実への批判理論もでてくる。キルケゴールは近代社会に個性喪失を感じとり、この私にとっての主体的真理を求めることで実存主義のはしりとなった。ニーチェはキリスト教道徳を徹底批判しその権威崩壊後におとずれるであろうニヒリズムを克服するために、現実世界を肯定しながらみずからの意志で新たな価値を創造するべきだとした。他方フランクフルト学派は、現代においては理性が自然を支配し人間を管理する道具的なものになったと批判した。なかでもフロムはファシズムをうみだす心理的要素としての「自由からの逃走」という言葉で有名だ。他方アメリカのリースマンは現代人の他人指向型の性格類型を指摘している。実存主義のサルトルは、この私が、自分とはなにものかを自らが自由に決定してゆくしかないとした。さらに主体的に社会参加すべきとして一時大きな影響力を誇った。
ファシズムとスターリン主義というおそるべき時代を経て、絶対に正しいことなどないという相対主義的な思想が主流となってきた。しかしひとそれぞれでいいということになると、力のあるもののいうことがまかり通る事態にもなりがちである。やはりこれまでの哲学の歴史にふまえて、来るべき時代を切り開いてゆくような哲学がうちたてなおされなくてはならないと思う。