二度にわたる世界大戦の惨劇を繰り返さないために、第二次大戦後の世界秩序は形成されるはずだった。しかし、戦後世界はアメリカとソ連の対立を軸に緊張をはらみながら展開する。日本は米軍による事実上の単独占領下におかれながら再出発する。アメリカ政府は日本の非軍事化・民主化を、アメリカの脅威にならないようにという目的に基づいてすすめた。日本の支配層の意識や姿勢は敗戦によっても大きく変わらなかったため、アメリカGHQ主導で改革が行われる。日本の国民の力によって戦後の民主化がすすめられ始めたわけではないと言わざるを得ない。
新憲法も、日本側がGHQの指示を受けて作成した案が旧憲法とほぼ変わらない内容だったため、いわゆるマッカーサー草案がつきつけられ、これを修正しつつ日本国憲法として誕生した。とはいえその内容は、主権在民・平和主義・基本的人権の尊重を三原則とする歴史を画するようなものだった。とりわけ戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認を掲げたことは特筆すべきことだ。新憲法の精神に基づいて多くの法律が制定・改正された。
経済は戦争で大混乱し国民の生活は破壊され飢えに苦しむほどだった。政府が経済復興の政策を打ち出してゆく他方で、大衆運動が高揚し、選挙では一時社会党が第一党となり首相をだすほどだった。しかし多くの対立と混乱のゆえ日本国民の力で民主的な社会の土台をしっかりと作り上げることは順調には進まなかったと言える。
世界がアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を盟主とする社会主義・共産主義陣営に分断される。両者は互いに核武装をし経済・イデオロギー面でも対立を続ける。こうしたなか、中国の内戦において共産党側が優位に立っている状況をうけて、アメリカの対日政策が転換する。日本を安定した経済強国とし、資本主義陣営の主要国にしようと決めた。これゆえ日本労働運動は厳しくおさえられながら、吉田茂を首相とした保守安定政権が確立する。
第二次大戦後、米ソにより南北に分断された朝鮮半島で全面戦争が勃発する。これを機にアメリカは日本の再軍備を容認する。さらに、日本は西側諸国だけと講和をむすんで独立を回復した。その際に米軍に基地を提供し続け安全保障をアメリカに依存することも決めたと言える。
とはいえ占領期のGHQ主導の改革及び新しい平和で民主的な社会の建設をめざす国民の行動によって、戦前・戦中の価値観や社会の在り方は大きく変わり、日本国憲法の精神は国民意識に浸透していったと言える。その際には、国民のうちに、もうあの悲惨な戦争は二度と繰り返してはならない、という非戦・厭戦の実感があったのは間違いない。自由な言論や新たな思想がうみだされ学問も次々と創造的成果をあげた。軍国主義から戦後民主主義への安易なのりかえを批判的にみる言説もあったが、日本国内の平和の回復のもと、国民は新たな文化を創造し享受しつつ、歩みだしたのだ。
ところが世界は米ソの核軍事力をさしむけあった激しい対立と、その緩和、再緊張を経過してゆく。一歩まちがえれば全面核戦争というような危うい緊張の内に世界はあった。米ソ両陣営から距離を置く国々もあらわれ、新たに独立を果たした旧植民地諸国が終結する動きも見られた。また、フランスが宗主国としての位置から撤退したベトナムでは、南北に分断したうえで北ベトナムにアメリカが軍事介入しベトナム戦争に発展した。
日本では発足した自衛隊や日米安全保障条約は憲法に違反するのではないかということが争われた。在日米軍基地に反対するたたかいや原水爆禁止運動など、反戦・平和・非核を求める運動が高揚した。他方で戦犯として追放されていた大物政治家たちが政界に復帰し、国内の対立が激しくなる。分裂していた社会党が統一したことに対抗して、保守の二党が合同して自由民主党が誕生する。以後、保守一党優位のもとでの保革対立といった政治秩序が続く。保守合同後に鳩山内閣は「自主外交」を謳って、再軍備と憲法改正を目指しつつ、ソ連とも国交回復を実現した。さらに岸内閣は日米安保条約を改訂しようとし、強い反対運動にさらされる。岸内閣の強行採決に「民主主義の破壊」をみてとった国民各層は国会を十重二十重に取り巻いて抗議したが、岸は自らの退陣と引き換えに安保改定を成立させる。
この後を受けた池田内閣は、姿勢を転換し「所得倍増」を掲げ経済成長優先の政策に切り替えた。朝鮮戦争の特需が日本経済復興の契機となったと同様、本格化するベトナム戦争に日本は出撃基地を米軍に提供しつつこの戦争を経済成長のテコとした。「基地の島」沖縄ではアメリカ占領下から日本への復帰を要求するという形において反対運動が展開された。こうした中で、佐藤内閣はニクソン米政権と沖縄返還協定を調印する。